1996年生まれの男の日記

平凡な平成8年生まれのサラリーマンの日記

25歳になったが両親の背中は見えない


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今年も無事誕生日を迎えて25歳になった。

25歳といえば、小学生や中学生の頃の自分からすると一人前の大人であり、仕事をバリバリこなしている、もしくはロックバンドで大成功を収めているであろう年齢だった。

しかし、もちろんそのようなことはない。ましてやサラリーマンとしてバリバリ仕事をしているということもない。

25歳という数字には流石に驚く。

巷では四捨五入すればアラサーである、と言われるが私の考えるに、15歳の人を指して四捨五入すれば20歳だ、などと言う人は少ないように思うため、そのような考えは無い。

がしかし、25歳という数字には歳をとったと感じてしまうのだ。

今の感覚としてはただ歳を重ねているだけな気がしてならない。

多分人間としての基礎としては中学生の時点で完成していたような気がする

何事にも斜に構え、人が良しとすることを良しとしない嫌な奴だ。

しかし変わったこともある。想像力がついたことや視野が広くなったことだろうか。

これは中学生の頃から今に至るまで、全138回の放送を何回も繰り返して聴き続けているPodcastゲーム脳ばと」にて話されており、なるほどと感心したのだが、人間は子供の頃から基本的な考え方は変わっていないけれど、視野が広くなったことによって大人なっていくのかもしれない。

そう考えるとSNSなどを見ていると、まだ視野が狭い人や想像力の足りない人が散見される。

彼らの考え方というのは間違ってはいないが、別の角度から物事を見る人がいることを認識できていないように感じる。

何より私にもそのようなところがある。

これは直さなければいけないが、それを認識できるようになったことは成長なのかもしれないと思う。

とは言え、私はまだ大人子供だろう。

例え自分の金で飯を食い、家に住んでいたとしても、本当の時ところが両親に及ばないと感じる。

同時に自分よりも遥かに出来た人間が親で良かったと思う。

彼らに追いつけるように歳をとっていきたい。

このような考え方をさせてもらえるというのは恵まれている証拠だと思う次第である。

何より、誕生日を祝ってくれる人がいるということが幸せなことだ。